新年会のバージョン
宣教師たちによって伝えられた「南蛮料理」も、いつか魚貝中心の日本料理の中にとり入れられていった。
もっとも、オランダ人だけはまだ長崎出島に残っていた。
蘭学者たちには将軍家に肉食をすすめるものもあった。
だから、将軍家ではこっそり肉類を食べていたらしい。
元禄のころから彦根藩では牛肉の味噌漬けを幕府に献納していたという。
からだの悪い人や養生のために「薬食い」と称して、少しずつ牛肉を食べることもあった。
それにしても、飛鳥・奈良時代の「薬猟」といい、江戸時代の「薬食い」といい、貴族や大名はなんとか理由をつけて牛肉を食べていたわけで、上方が庶民とは別の楽しみを持つことは、古今東西を問わない。
幕末になると、続々と外国人が渡来し始めたが、やって来た連中にとって日本はまったく牛肉が食べられない、つらい土地だった。
ペリはそのことを特筆して本国へ書き送っている。
が、そんな中にも、牛肉を食べることはだんだんに庶民のあいだに行なわれるようになり、やがて公然と牛肉が食べられるようになった。
文久2年(1862)横浜で居酒屋をしていた伊勢熊という男が牛鍋屋を開いたのが、日本における牛肉店のはじまりだ、といわれている。
伊勢熊は本邦初の牛肉屋というアイデアに酔って女房に相談したが、女房は、「そんなけがらわしいものを売るなら離婚してからにしてくれ」といってきかない。
しかたがないので1軒の家を2つに仕切り、1方では女房が居酒屋を続け、片方では伊勢熊が牛肉店を営業することになった。
はじめのうちは居酒屋の方だけはやって、牛肉屋には人が来ず、伊勢熊は困っていたが、そのうちに牛肉のよいにおいがするので居酒屋の客で牛肉に手をだすものも出て、食べてみるとおいしいので、日ましに繁昌するようになった。
それで、女房も折れて、中仕切りを取り払って牛肉店として、夫婦は仲なおりした、という話が伝わっている(『ものしり事典』より)。
牛鍋屋もあちこちにふえていった。
もっとも、当時の牛肉屋は、ふがいないもので、牛肉は売っていても牛や豚を殺せなかったらしい。
後に『肉食の説』を書いて明治の世に大いに肉食をすすめたF沢諭吉は、大阪の緒方洪庵の書生だったころ、難波橋の近くの牛鍋屋のおやじに豚を殺すことを頼まれて、豚の足をしばって川へつつこんで殺してやった話を書いている。
畜生を殺すのは残酷だとか、畜生を殺したら、土地がけがれるとかいう考え方も強かった。
同じF沢諭吉によれば、 「当時屠殺は大騒ぎで、けがれぬようにと青竹を4本立て、それに御幣を結び、注連を張る中へ牛をつなぎ、カケヤで撲殺してから、ほんの上肉だけを取り、残りはみな土中に深く埋め、坊さんが御経をあげるという始末だった」という『食物史』。
牛肉は「文明の薬」とされた。
「千効万能の苦薬を喫するは1鍋の牛肉を食うにしかず」とまでいわれた。
長崎や薩摩あたりでそっと食べられていた豚肉も、牛肉の流行とともに大いに食べられるようになった。
また、15代将軍1橋慶喜は豚を好んで食べたので「豚1さん」とアダ名にされたという。
「西洋」を否定し、食生活の面からいえば、肉食を否定することからはじまった徳川幕府だった。
そこへ「西洋」の肉食が浸透っていくのをどうすることもできない幕末。
豚好きをかくそうともしない将軍の挿話には、尊皇討幕の志士たちの活躍とは別のところで、幕府の落日を見る思いがする。
明治5年には明治天皇が宮中ではじめて牛肉を試食された。
西洋文明の吸収に急だった当時の日本では、政府にとっても牛肉こそは文明開化の目玉商品だった。
たくさんの肉食奨励の本が現われ、日本人はだんだん牛肉を好きになっていった。
「牛肉の人におけるや、開化の薬舗にして文明の良剤なり。
その精神を養うべく、その腸胃を健やかにすべく、その血脈を助け、その皮肉を肥やすべし……」(『東京繁昌記』による)のための「薬剤」となったのだ。
牛肉好きになったといっても、日本人は牛鍋やすきやきなど、牛肉を野菜類といっしょに醤油で煮るという、しごく日本的な料理で食べ始めた。
また牛肉を刺身にして食べることちはやったらしい。
その他、前に述べた味噌漬けなど、つまり、従来の魚料理の魚の代りに肉を使ってみただけだった。
その食べ方は大正を通りすぎて、昭和の前半まで続いた。
「肉食」ではあっても、決して「洋風化」ではなかった。
だから日本人はもっぱら魚肉なみの軟らかい肉にあこがれ、松阪肉、神戸肉など、世界にも類のない軟らかい肉を作り上げた。
また厚さミリぐらいに切って湯につけて食べる「しゃぶしゃぶ」は、牛肉の日本的洗練の極致といえるだろう。
あるオーストラリア人が日本に来て、日本の牛肉を食べて文句をいった、という記事を目にしたことがある。
「オーストラリアでは牛肉とは固いやつをムリに歯でかみくだくものだ。日本の牛肉を食うのに歯はいらない。歯のいらないものは肉ではない」 オーストラリアからは生肉も輸入されているが、固いからといって文句をいうのはお門違いということになりそうだ。
ただし、最近は日本人用に特に軟らかくした肉が輸入されている。
日本人がステキやロストビフなどの「歯の要る」肉の食べ方に少しずつ親しみ出したのは、太平洋戦後、ここ20年ぐらいのことだ。
今では若者の嗜好は1直線に「肉食」に向いている。
世界じゅうの牛肉の食べ方が日本では味わえるといわれる。
それでも、日本人の牛肉消費量はヨーロッパ人の数分の。
肉を主食とするかれらにくらべれば、日本人の肉食は「肉食のままごと」だといわれる。
日本人は動物性蛋白のとり方が少ない上、その半分以上は魚介類に頼っている。
日本人の肉食はいま始まったばかりといっていい。
現在、人間の食べものになっている動物は草食獣(牛や羊)か雑食獣(豚など)だ。
つまり、人間がそのままでは食べられないものを人間に有用な蛋白質や脂肪に変えてくれる、たいへんありがたい加工装置といえなくもない。
人口の増加と、それに伴う食糧危機の到来が憂慮されているが、将来は豚や牛を農業や公害のない工場の中で特別の飼料で「生産」する時が来るといわれている。
その考え方の中には、冒頭のヨーロッパ人のように、牛や豚の生命をひたすら「神が与えた」人間の食物とする思想がいやに明確に横だわっている。
残酷な話だ。
が、それに目をつむらねばならないだけ、人間の世界はさし迫っているのである。
たべものの禁忌は、もともと宗教や迷信に根ざしたものが多く、科学的合理主義が人間の″進歩″の目標のようになっている今日、これらのタブーは世界中で多かれ少なかれ、だんだん影をひそめつつある。
そんな中で、いまだに豚肉ほど強いタブーの対象にされているたべものも珍しい。
それに、豚肉を食べない民族や信者は、豚肉を仇敵のようにやたらに忌みきらい、食べるものは好きで、好きでやたらに食う、というふうに好悪がはっきりしている点でも、豚肉は特異的だ。
豚肉の食用を禁じている宗教は回教・インド教・ユダヤ教などが有名で、いずれも徹底したタブーとなっている。
厳格な回教徒は、外食するにも普通の食堂へは入らないで、回教徒専門の店へ行く。
普通の店へ入っても豚肉を食べさえしなければいいように思うけれど、豚肉も扱っている店では、鍋や包丁が豚肉に触れているからいけないのだという。
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